第60話    「鶴岡の釣は徒歩の釣」   平成17年05月29日  

大正時代の初めの頃まで、鶴岡の釣り人はメインの戦場である加茂磯までの峠越えの道を徒歩で歩いていた。その道は通称加茂街道と呼ばれ、城下の西約12キロにある。加茂の湊を境にして南側を上磯そして北側を下磯と云った。由良以南の磯は釣をする時間を勘定に入れると一泊二日以上の行程であったから徒歩で行く人は先ず少なかったと云って良い。徒歩での移動は平均時速4キロと云われているから、約3時間の行程と考えられる。だから早朝一番の釣をしたい者は、鶴岡を午前2時頃には城下を出立しなければならない事になる。長竿23本とはけご(魚籠)、それに昼食などを背に担いでの徒歩である。今考えるとちょっとした遠足を休日の度に行っていたと云う事になる。

当時お金のある人達は自転車を買って、加茂磯まで出掛けた。もっとお金のある人達は人力車で行ったと云われている。人力車で行くような人達はお金持ちが多く、日帰りの釣などはせず、釣場の近くに宿を取り何日かの逗留をして優雅な釣を楽しんだとも云われている。彼等の多くは人の一杯いる加茂磯を離れて、更に南の人気の少ない由良磯からずつと南まで足を伸ばしている。

加茂磯までは途中の柳原と加茂坂に茶屋が二軒ほどあり、日曜日などの休みの日などは釣り人で行列をなしたと云うから結構商売になったらしい。小腹の空いた釣り人達は其処で茶をすすり、お餅を食べ、休憩したものだとも伝えられている。

この加茂坂の峠は標高150mの場所にあり、その昔天領であった頃大山(天領)、鶴岡の城下と加茂湊を結ぶ流通の重要地点であるが、最短距離で結ぶ隋道(トンネル)等はなかったから、荷を担いで行き来するのは大変であつた。そこで朝日村の真言宗注連寺に伝わる即身仏で有名な鉄門海上人が荷物を背負った老婆の峠越えの難儀を見て、文化7年(1810)にはじめて新道(隋道)を掘ったものと伝えられている。鉄門海上人を慕う大勢の信者等の協力により、加茂坂峠の新道開削工事が行われ二年後の文化9年(1812)に竣工した。その後弟子たちの手により改修が続けられ、更に多くの信者が協力したと云われている。その後明治の初めの頃、初代山形県令の三嶋通庸より改修工事が行われた。更に明治17年と昭和14年に改修工事が行われ、近年国道112号線になって新道が作られ新しいトンネルが20035月に完成するまで、この隧道(トンネル)が使われていた。

仕事では調査などで一日片道1520キロも歩くことはあっても、釣で歩くのが嫌で釣場のすぐ近くまで車で行く事が多かった。それを幕末から明治、大正の初めの頃までの鶴岡の釣師たちは毎週のように歩いたのだから、恐れ入る。さすが、その昔武士たちが身体を鍛えるのには丁度良い距離であったのだから、釣を釣道として殿様が家来達に奨励しただけの事はある。

やがて現在の羽越線が鶴岡から南に延伸されるようになった。大正8年(1919)鶴岡〜大山間開通(加茂坂の手前の町)、大正11年(1922)には鶴岡〜三瀬間開通(由良磯)、大正12年(1923)鶴岡〜鼠ヶ関間の開通(温海、鼠ヶ関の磯)した。鶴岡の釣り人達は、便利な汽車を使って荒らされた加茂磯から未開拓の釣場へとどっとなだれ込むようになった。四間のノベ竿で釣っていた加茂磯の釣師たちの中には、正統派を気取りで足しげく長竿を担いで加茂坂を超えて通ったものだと云うが、大勢はより釣れる釣場へと動き始めていた様である。今でも近くの釣場より、遠くの釣場が釣れる気がするのは同じであったから、当時の釣師たちも気持ちは同じだったと見える。ところが汽車で長い竿を運ぶことは、昔でも違反であったから当然不便をきたした。それでも休日の一番列車は釣り人で満員であったそうだ。文明の進歩は、新しい発明をもたらすとは良く云った物で、鶴岡の大八木釣具店が大八木式真鍮パイプの継竿を考案した。これは庄内釣の釣具の進化の一つの革新があったことは間違いではない。当然正統派を自認するノベ竿志向の釣師(ノベ竿派)と進歩的な頭の軟らかい釣師たち(継竿派)の間に対立が生ずるようになった。

徒歩の釣から汽車を使用し、遠出の釣への進化の過程で、このような物語があった。やがて釣れる遠出の釣が当たり前のようになり、継竿は中通し竿が発明される盛んに使われるようになるとノベ竿のひとつとして考えられるようになった次第である。最近までの庄内釣師達は竹からカーボンに変わっても釣る場所や対象魚によって継竿と中通し竿の両方を使い分けしていたが、その数はめっきりと減少している。中通しの竿でさえ、外ガイドの釣竿に押されつつある現象がある。